四十の一部始終

今年で四十歳になりました。二日に一回更新が目標。

『君たちはどう生きるか』を見て僕たちはどう生きるか。

公開前に全く宣伝しないせいで、何一つ概要が伝わってこなかった映画『君たちはどう生きるか』。分かっているのは同名のベストセラー小説とは関係ない内容ということと、ティザービジュアルに描かれている謎のアオサギ?くらいであった。

 

26年前に公開された『もののけ姫』で引退宣言してからというもの、毎回の引退宣言→引退撤回→引退宣言の繰り返しに正直もう宮崎駿はいいよという気分になっていたのだが、新作の内容が何も分からないとなるとちょっと気になってきてしまう。逆に言えばスタジオジブリの、宮崎駿の作品を何の先入観も持たず見るなんて、いまだかつてあり得ない経験なのではないか? そう思うと何か特別なことのように感じられてきて、まんまとスタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫の目論見通りに『君たちはどう生きるか』を見に行ってしまったわけだ。宮崎駿も御年82歳。最後の作品になる可能性は非常に高く、生前葬に参列するような気持ちで映画館へ向かった。

 

 

ここから先はネタバレあり。

 

 

個人的に『君たちはどう生きるか』は『もののけ姫』以来では一番良かったんじゃないかと感じている。アニメに限らず、創作というのは何かしらの形で自分の内面が滲み出てくるもので、その滲み出てきたものを人は作家性と呼ぶ。宮崎駿と同年代である映像作家、富野由悠季なんかは主人公の家族が歪な関係性であることが極めて多いのだが、それが本人の家族観に基づいたものであることは言うまでもなく、それが作家性だと言えるだろう。老いたとはいえ日本を代表するクリエイター、宮崎駿の内面がいまだかつてない程に滲み出ている作品が面白くないわけがない。とはいえ誰が見ても楽しめると自信を持って言えるような作品ではないことは確かで、この作品をつまらない、わけがわからないと斬って捨てる人も少なくないだろうというのは容易に想像できるし、公開以来ネットでも既に賛否両論飛び交っている。自分はたまたまこの作品を楽しめる側だったというわけだ。

 

今回のテーマはあえて言うなら”宮崎駿”そのものだろう。まず冒頭、街にサイレンが鳴り響くシーンが始まり、もしかして今回は戦争映画なのか?と思ったが違った。時代設定は戦時中であるが戦争とは離れた一人の少年の物語だ。主人公は牧眞人という歳端も行かない少年なのだが、彼は航空機の部品を作っていた工場の社長の息子で、戦時中にもかかわらずそれなりに不自由のない生活を送っている。勘のいい人なら、これって宮崎駿の生い立ちそのままではないか?ということに気付くはずだ。その時点で牧眞人は宮崎駿本人を強く投影しているキャラクターなんじゃないかと思ってしまう。もちろんそれに気付かない人もいると思うが、その人は同じ映画を見ていても、きっとまったく別のもの見ていたに違いなかった。

 

そういう目線で見ると、この映画で描かれていることは宮崎駿の原体験が反映されているか、あるいはそれに関係する何かであると深読みせずにはいられなくなる。疎開先の森のすぐ近くにある大きな家、デリカシーのない父親、新しい継母である実母の妹。そして屋敷の一角にある、世捨て人になった大伯父の手によって作られた不思議な塔。眞人につきまとうように周囲を飛び回るアオサギ。眞人は新しい家で、父親や義母との関係にわだかまりを感じつつも、つきまとうアオサギをやっつけようと試行錯誤する。この部分は正直言うと結構楽しかった。

 

眞人は突然喋りだしたアオサギに導かれるように塔の中に入り込み、中盤以降は”下の世界”と呼ばれる幻想的な世界に舞台を移し、物語はある種の冒険活劇的な展開を見せる。ここから先はまるで死ぬ間際に見るという走馬灯のような、宮崎駿の脳内のイメージを羅列したような世界が描写されていく。漫然と見ていると終始脈絡のない夢のような話なのだが、台詞の端々にはアニメーターとしての宮崎駿であったり、その周辺環境を思わせるようであったり、色々と思わせぶりな正体不明の存在が現れては消えていく。

 

そして紆余曲折あって、後半現実の世界からいなくなったはずの大伯父と呼ばれるキャラクターが出てくるのだが、このキャラクターがまた宮崎駿本人を思わせる存在なのだ。少年の宮崎駿が眞人なら、この大伯父が今の宮崎駿と言ったところか。このキャラクターの机の上にある十三個の積み石が、他ならぬ十三本ある宮崎駿監督作品のメタファーなのではないかと思えるし、世界の存続のために後継者を求めていることもそうだ。そうするとある人は理想郷と呼び、ある人は地獄だというこの”下の世界”はまるでスタジオジブリそのもののようではないか。後継者は同じ血筋のものだけ、と大伯父は眞人に積み石を積んで世界を引き継ぐように持ちかける。見た直後は宮崎吾朗のことなのか?と単純に捉えたが、今ではあまりそう思えない。この辺りのやりとりには、宮崎駿監督自身の今の心情が特に表れているように思えてならなかった。

 

結局眞人は積み石を引き継がずこの世界は崩壊し、”下の世界”の入り口であった塔は崩壊して中に住んでいた鳥たちは我先にと逃げ出していく。その場面はスタジオジブリの終焉を表しているかのように見えたのだが、無論こういう見方に根拠があるわけではない。全てをこじつけるのは容易ではないし、宮崎駿の内面など推測以外の何物でもないからだ。しかし下の世界で出会うヒミという少女、この作品の事実上のヒロインと言ってもいい存在なのだが、実は宮崎駿の母親にそっくり(写真を検索すると出てくる)で色々な業の深さが垣間見える存在であったのは、偶然ではあるまい。

 

そしてここまで特に触れてこなかったが、じゃあアオサギは一体何なのかという疑問にも一つの解釈が見いだせる。日常では眞人が攻撃性を向けずにはいられない憎たらしい存在でありながら、同時に下の世界においてはまるでバディのように旅をし、かけがえのないパートナーでもある存在……そう、それは鈴木敏夫。そう思って見ると、サギとしてこの映画に出演させるのも洒落が利いているし、鈴木敏夫に対する一筋縄ではいかない宮崎駿の感情も伺い知ることができるような気がするのである。

 

とまあ自分にとっての『君たちはどう生きるか』とはこのような作品であった。言うまでもなくこの解釈は自分が勝手にそう思っているだけであって、他にどうとでも解釈できる余地のある作品である。『鬼滅の刃』は面白かったし、確かに日本で一番売れた映画ではあるが、自分の解釈の入る余地は極めて少ない。そういう意味では今回の宮崎駿の作品は非常に面白い賛否両論の作品となった。もちろん駄作と一蹴する人もいるだろう。見たまんま受け取れば宮崎駿のイマジネーションによる異世界冒険譚として見ることもできる。真面目にライトモチーフを考察してもいいし、当然深読みするのもOKだ。この作品に対するアプローチの仕方は、ある意味生き方を問われている。さあ僕たちはどう生きるのか。