四十の一部始終

今年で四十歳になりました。二日に一回更新が目標。

『DUNE/デューン 砂の惑星PART2』鑑賞。

『DUNE/デューン 砂の惑星 PART1』が日本で公開されたのは2021年10月。SF小説の古典と言ってもいい作品なので名前だけは知っていたもののこれまで触れる機会はなく、色々あって映像化にも恵まれていなかったようなので、渡りに船だと思って観てみることにしたのである。『複製された男』『メッセージ』『ブレードランナー2049』など数々のSF作品の映像化を手掛けているドゥニ・ヴィルヌーブが監督を務めていることもあって、作品の出来についてそれなりに信頼はしていたのだが、それ以上にこの作品の興味を持った理由は、SFという分野においてはファンタジーで言う指輪物語ロード・オブ・ザ・リング)のようなジャンルの基礎になっている作品だと位置づけられているからだ。つまり今自分たちがよく知っているSF作品の、さらに元ネタのような作品だというわけだ。

 

実際に観てみると確かに作品全体に漂う既視感がものすごい。舞台が砂の惑星だったり、ベネ・ゲセリットという秘密結社がボイスという言葉だけで人を操ったりする特殊な能力の持ち主だというのは、スターウォーズでいう惑星タトゥーインやフォースのようだし、砂虫(サンドワーム)という時に知性を感じさせなくもない超巨大な生物には風の谷のナウシカ王蟲のイメージが重なる。高速で飛んでくるものを防ぐシールドの技術が発達しているため、銃ではなく剣などによる原始的な接近戦をしないと相手に致命傷を与えられないなどの理屈も、陳腐どころか一周回ってむしろ新しさすら感じるほどである。はぁーなるほどね、先人たちはこの原作小説を読んでイメージを膨らませていったわけだ。そのイマジネーションの源泉に触れるのはなかなかに刺激的な体験だったのだが、上映時間155分もあったPART1は本当に序章といった感じで終わってしまったので映画としてはあまり高得点はつけられない作品であった。

 

そんなこんなで2024年になってようやく日本でもPART2が公開されたので、話の流れはそれなりに覚えているから復習しなくてもまあ大丈夫だろう…と軽い気持ちで観に行ったものの、作品独自の専門用語の数々がすっかり頭の中からすっぽ抜けていたため、映画を見ながらこれどういう意味だっけ…と最初のうちはちんぷんかんぷんの状態だった。しばらく見ていれば文脈としてある程度の理解は可能だったが、帰宅してすぐにPART1を見て再確認することになった。

 

見たついでに大雑把に前作をおさらいするとこういう話。アラキス、あるいはデューンと呼ばれる砂の惑星で採取されるスパイス(メランジという名前があるが、自分の見た吹替版では単語そのものが出てこなかった)を摂取すると、超高速航行の演算すら可能になる特殊能力に目覚めるため、スパイスを掌握するものが宇宙を制するほどの影響力を持っていた。銀河帝国の皇帝はハルコンネン男爵家に惑星アラキスとスパイスを管理させていたが、あるときその管理権がハルコンネン男爵家からアトレイデス公爵家に移されることになり、アトレイデス家の長であるレトの息子ポール・アトレイデスも父親と共にアラキスへ行くことになる。しかしそれはアトレイデス家の隆盛を妬んだ皇帝の罠であった。ある晩ハルコンネン家が率いた軍隊の奇襲攻撃によってアトレイデス家は一夜にして壊滅、ポールは母親のジェシカと共にアラキスの広大な砂漠に逃れる。だが砂漠で大量のスパイスに晒されることになったポールには未来を予知する能力が目覚めつつあった。二人はアラキスの原住民フレメンに拾われることになったものの、余所者のため受け入れられない者もいたが、決闘の末フレメンの一員として認められるのだった。

 

PART1は基本的に主人公であるポール・アトレイデスの境遇や世界観の説明に終始していたのだが、PART2はフレメンの一員となったポールがハルコンネン家への復讐のために徐々に頭角を現していき、幾多の試練と戦いを経てリサーン・アル・ガイブと呼ばれる救世主となっていく姿が描かれる。その中でヒロインであるフレメンのチャニと心を通わせつつも、やがて運命のいたずらによって二人は引き裂かれてしまうことになる。

 

前作に比べて戦闘シーンのパートが増えて見どころは増えているのだが、前作以上に風景が砂と岩ばかりで代わり映えしない感じは拭えない。フレメンの文化や言語はイスラム色が強く、宇宙SFものにも関わらず中東と欧米が戦争している風に見えてしまうので若干のせせこましさを感じてしまう。ポールは未来視の能力を得て救世主になったはずが、それによって運命に逆らうことができなくなってしまうという皮肉な結末には思わずため息が出てしまった。PART3までやるらしいが、公開はいつになるんだろうか……。