四十の一部始終

今年で四十歳になりました。二日に一回更新が目標。

Netflix『呪詛』鑑賞。

日本のホラー映画はもうギャグと紙一重なのばかりだし、リングの続編がいくら出ようとも、もはやジャパニーズ・ホラーのアイコンになってしまった貞子にもう恐怖を感じなくなってしまった昨今、日本と似たようなジメジメとした雰囲気でありつつも新たなる未知の恐怖を感じたい。そんな欲求にピッタリのホラー映画はどうやら台湾にあった。

 

Netflixで配信されて間もない『呪詛』もそういう作品のひとつだった。呪われてしまった娘を救うために、かつて呪われた母親が奮闘する。今思うとなんだか『リング』っぽいなと思うが、ファウンド・フッテージ方式(一人称で撮影された映像)で繰り広げられる、何か起こりそうで何も起こらない、何かいそうで何もいない、そんな序盤の雰囲気はホラー映画として素晴らしいものがある。この画面に余白にこれから何かあるんじゃないか? この作品がどういう手段で怖がらせてくるのかまだ分からないので、つい身構えてしまう。思えばこの序盤が個人的には一番良かったような気がする。清潔感とは程遠い集合住宅の一室のジメジメ感が本当に良い。

 

呪われた原因だったり、実際に怪異に襲われたり、過去と現在の視点を行き来しながら物語は進んでいき、途中でびっくり箱的なジャンプスケアや真綿で締め付けるような恐怖映像があってそこも十分怖いのだが、冒頭で画面の向こうから語りかけてくる主人公ルオナンの意図が判明する終盤に、この映画のいやらしさが詰まっていると言っても過言ではない。ファウンド・フッテージの映画はカメラの扱いでどうしても不自然さが出てしまうのだが、それを逆手に取った仕掛けである。そもそも呪詛ってタイトルはどこにかかっているのか? そんな疑問を持ちながら終盤を迎えたときに、最悪の形でその意味を理解させられることになり、かなり気分が悪くなった。結局どういった結末を迎えたのかはっきりしないモヤモヤ感もあって、しばらくの間忘れることはできそうにない。

 

いつの間にか観ている方を当事者にしてしまうなんて反則だと思う。不幸の手紙を貰ってしまい、気にしていないはずなのに心の何処かにトゲが刺さっている。そんな気分にさせられるのが『呪詛』という作品に感じたいやらしさだった。だがホラー映画ではその嫌らしさは許されるのだ。だって怖ければ怖いほどいいのだから。そしてこの文章書いてるときに物が落ちてきて本気でビビった。