四十の一部始終

今年で四十歳になりました。二日に一回更新が目標。

『君を愛したひとりの僕へ』鑑賞。

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『僕を愛したすべての君へ(以下、僕愛)』を観たので結局『君を愛したひとりの僕へ(以下、僕愛)』も観ることにしたのだが、観るまえからある程度分かっていたものの、やはり後から観た方は”答え合わせ”という視点がどうしても入ってくるので、単独の作品として評価するのは難しい。よってここでは両方を観た感想を述べる。

 

『僕愛』の時点でもう片方の並行世界、すわなち『君愛』での出来事を匂わせるシーンが随所に存在していて、これはどういうことだったのか? と思いはするものの意味は分からないなりに『僕愛』は楽しめたのだが、『君愛』は『僕愛』とほぼ表裏一体の物語になっていて、確かにパズルの空白が埋まっていくような面白さはあった。『僕愛』の結末も、その人はつまりあの人なんでしょ? と根拠が無いなりに想像はできるのだが、『君愛』を観た今なら確信へと変わった。

 

『僕愛』のヒロインは瀧川和音というメガネっ娘、『君愛』のヒロインは佐藤栞という白いワンピースの女の子なのだが、『僕愛』でヒロインを務めつつ『君愛』でも重要なポジションの存在である和音に対して、栞はほぼ『君愛』のみに関与するキャラクターである。

 

自分は『僕愛』を先に観たせいで、どうしても和音の方に感情移入してしまい、周囲を顧みず何がなんでも栞を助けようとする主人公にあまり共感できなくなってしまった。『君愛』における和音の心情が『僕愛』において語られるせいである。そういう意味では確かに『僕愛』から観たら切ないラブストーリーだった、と言えるかも。和音目線で。

 

そして両方の作品に共通するのは、ヒロインとの恋愛パートはダイジェスト気味であるということだ。『僕愛』の感想でも述べたように、主人公の幼年期からヒロインとの出会い、そして老年期に到るまでの話なので、人生の一部分でしかない青春時代に割かれている尺は決して多くない。少年期の思い出のままの栞よりも、人生のパートナーとして長い付き合いのある和音の方には、愛情はともかく情が湧いてしまうのである。

 

言うなれば『僕愛』の主人公は和音であって、『君愛』の主人公は暦という男の子なのだ。栞に対してあまり思い入れが強くならないのも当然なのかもしれない。原作には三冊目の『僕がきみの名前を呼ぶから』という栞が主人公の作品があるらしく、それを読めばまた違った感想を抱くのかもしれない。

 

『僕愛』はグレッグ・イーガンの短編っぽいという印象を抱いたのだが、『君愛』は敢えていうなら『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』っぽいかな……。同じ登場人物・設定を下敷きにしているわりには物語の印象がだいぶ異なるのは間違いない。

 

ストーリーの個人的な好みは『僕愛』の方である。こちらの世界では、平行世界への移動を視覚的に表現する装置というのがあって、それによって人の同一性に悩むというある種の哲学的な問いかけにもなっていたのだが、『君愛』ではその設定がほぼ有形無実なため、自分の中にあるSF作品好きの部分があまり燃えてくれなかった。

 

作画演出や声優に関しては既に一作観ていたせいで慣れていたのか、そこまで違和感は感じなくなっていた。それよりも両方観たことで発生する一つの問題がある。それは重複している部分が結構多いということだ。

 

両方の作品に共通して、もう片方の世界であった出来事のダイジェストが流れるのだが、『僕愛』では見せ方にまだ工夫があったのに対して『君愛』ではただの垂れ流しだったのには困った。分かりきっていることをもう一度見せられるのは退屈極まりない。もし二本続けて観ていたのなら、その感情はさらに増幅されていただろう。一日開けていた自分にとっても、あまりにも同じ過ぎて観ている方の頭がおかしくなったのかと不安になったくらいである。しかも結構長いのだ、これが。

 

結論としては、観る順番で結末が変わるという宣伝文句だが結末が変わるというより誰に、どこに軸足を置いて観るかが変わるというくらいの違いである。映画二本観させる企画のための作品という感じで、他人に強く勧められるものではない。

 

しかし両方見るつもりなら『君愛』から、片方だけ見るつもりなら『僕愛』だけ、という感じになるだろう。自分から言えることはそれだけだ。